私の隣人。
名前をトビーと言った。
成長障害があるのか、ごくごく軽度の知能障害があるのか、小さな男性だった。
私はあまり彼を理解することができなかった。
親しい隣人というよりは、なにかと彼がらみの問題が多いのでちょっと厄介と思っていた。
会うたびに彼は、「なにをくれるの?」と挨拶をした。
庭になっているレモンを売りたいからくれ、とうちに言いに来た。
彼とその家族は払うあてもない電気と水道を大量に使い、私はその膨大な高熱費を払うことを半年間余議なくされた。市役所の協力で高熱費を払わない母屋の電気の供給を切ってもらったが、それから数日間トビーは深夜にうちの門をたたいては、「白人の家には電気が来てるのにうちには来ない。良くない。」と言い続けた。
電気代を払わないからだと説明しても、彼は理解することがなかった。
悪意がないのはわかっていたので、たぶん理解力の問題で話があまり通じない人と思っていた。
物をくれというのも、ベナン社会では軽い冗談として普通で、まったく珍しくない。
でも、トビーとはうまくコミュニケーションがとれないので、何か、たかられているような気分がした。
だから正直、私はトビーを疎んじていたと思う。
今日、午前の仕事を終えてうちに帰ると、警備員のルシアンがトビーが亡くなったことを私に告げた。
驚いて、音楽をとめ、料理の準備の手をとめ、庭へでて話をきいた。
母屋には、もう半年以上トビー1人が住んでいて、最近でも姿を見かけた。
信じられないほど、突然のことに思えた。
死因は糖尿病だそうだ。
トビーはその持病を11年間患っていたらしい。
彼のお姉さんが旧市長の親戚と結婚しているので、市長が生きていた時には市長がその薬代を払っていたが、市長が亡くなってからは払える人がおらず、トビーは毎月寄付を町の人々に募っていた。
けれども、今月はついに寄付が集まらず薬を買うことができず、病状は悪化し、昨日病院に運ばれて亡くなったということだった。
トビーは一度うちにも、寄付をしてほしいと言いにきたことがある。
それは糖尿病のためのものではなく、寄生虫治療のためのものだった。
いつもたかられている印象のあった私は、その申し出すらなにやらあまり信頼できず、ほんの少しの寄付しかしなかった。
ちゃんと働かずに、病気になったら寄付を求めるなんておかしいんじゃないか。
そうルシアンに言うと「トビーは最近パンを売ってますよ。働いているよ。」と彼が言うので一応寄付はしたという程度だ。
わずかな金額だったのに、トビーがありがとうと言っていたとルシアンから後で聞いて、これでよかったのかな、もうちょっとあげたらよかったかな、という後味の悪さを覚えた。
だから、トビーが亡くなったと聞いた時、どこかに後悔の気持ちがあった。
彼はうちに糖尿病の薬の寄付を求めてはこなかったし、私は事情を知らなかった。
でも、寄生虫の薬代にしても、もう少し寛大になればよかった。
せめて良心の呵責がないくらい十分と思う金額をあげればよかった。
貨幣価値の違いがあるんだから、こっちの人にとって結構な金額でも日本人の私にとっては大した金額ではなかったはずだ。
心から申し訳なく思う。
でも、人が亡くなるというのは、その人に対しての「これから」とか「次」がないということだ。
糖尿病の薬代は、月2.500francsCFAだとルシアンは言ったと思う。日本円にして500円だ。
500円の薬が毎月買えない。
それで、トビーは亡くなった。私にとってはそういうことに思えた。
「遅すぎる。もし知っていたら、何かもう少し助けになれたのに。そんな重病を抱えてるとは思わなかった。本当に申し訳ない。」
私がそう言うと、ルシアンは「あなたの問題ではないですよ。」と説明を始めた。
「彼にとっての死ぬ時が来た、というだけのことです。お金で死ぬ時は変えられませんよ。神様がトビーを呼んだんです。」
たとえ薬代をみつくろって一カ月二カ月遅らせられたとしても、必ずその時は来るんです、と彼は言う。
それは既に決まっていることのように。
ルシアンの言葉に、ベナンの人たちの「受け入れの姿勢」を見る。
日頃から感じていること。ここの人たちは嘆きすぎない。
物がないこと、お金がないこと、理不尽なことに対する受容。
そうしなければいけない環境でずっと生きてきたからなのか?
もちろん、トビーが亡くなったのは自分のせいだとまでは思っていない。
けれども、やっぱりやりきれない思いがある。
自分が隣人として、つまらない猜疑心から彼の助けにあまりなろうとしなかったことも。
日本でなら助かるんじゃないかと思う原因で、人が亡くなっていく現実も。
私がマラリア治療で長く家を空けて帰った時に、おかえりなさいと言ってくれたトビーを思い出す。
彼の姿はもうどこにもない。
2011年4月20日水曜日
2011年4月13日水曜日
13 April. 2011 ドタキャンとベナン人
今日は出鼻をくじかれた。
予定していた学校のSupervision(査察)が今日もあるので、いつもどおり保健センターの衛生管理責任者(主任)のオフィスの前で彼と彼のアシスタントを待つ。
9時。既に学校での査察が始まる予定時間。なのに、まだ学校に向けて出発もしていない。
ベナンでの約束の時間はゆったりめだけど、それでもいつもはこの時間にはさすがに出発している。
彼のアシスタントはいつもどおり大遅刻なのだろう、来ていない。おとといもそれで主任の怒りをかったばかりなのに、なぜ来ない?
主任に電話をしてみた。
ボンジュ~ル、コモンサヴァ~?(おはよう、元気?)とご機嫌の返事。
それは嬉しいことだったけど、今どこですか?Supervisionは?と聞くと、
「あ~!そうだそうだ、査察か!昨日からずっと仕事でアイジェソ(結構遠い村の名前)にいて、帰ってきてないんだ!言うの忘れてた。プログラム組み直そう。」と言う。
一応、ちょっとバツが悪そうな様子だけど。
・・まじっすか。結構それは気まずい状況ですよ、主任。
彼も知っての通り、監査を予定している学校にはすべて前もって視学官事務所から公式の令を出しているし、村の権力者やPTAも呼ぶようにと書いている。
さらに、昨日は同じ学校の別のグループの校長にもたちあってもらうように電話してしまった。
私たちを待つ、校長たち。既に呼ばれてしまって学校でたむろっている村人たち。
最悪の光景が私の頭の中に。ドタキャンはまずいやろ~
校長たちの信用を失うのがこわかったので、主任に直接校長に電話して説明してくださいとお願いした。
彼は、保健センターの一部署の責任者だし、その地位と長年の働きによって校長たちからの信頼を得ている。
だから私が電話するより、その方がいいと思った。
主任は「わかったわかった。電話番号を教えて。」とすんなり承諾し、電話しておくと言った。
これだけ公式に予定されている仕事でも、こんなことになるのか。
やるって言ってやらなかったら、信頼を失うんじゃないのか。
狼少年的な感じになって、次から軽視されたり。
そんな危惧が残って釈然としない。
でも同時に、ベナンでのことだからこういう懸念も私がドタキャンにイライラしたり意気消沈していることも、たぶん的を得ないことなんだろうなと頭では思ったりもした。
一年ここで働いているので、こういうことがまれではないことも知っている。
自分の感覚が日本人としてのもので、ベナンでは違う常識とか信頼関係の作り方があるんだろうとも漠然と思う。
でも、未だにそれがどういうものなのかが、はっきりわからない。
ここの社会では、常識として何が許されて何が許されないのか。
人はどういう理由で他人を信頼して、どういうことで失望するのか。
大事にしなければいけないところ、外してはいけないポイント、そいうのが一年たった今もわからない。
人付き合いに関する礼儀とかルールとか、そういうベナン人の常識が霧の中のようにぼんやりとしか見えない。
たとえ表面的に少しはわかっても、感覚として共有できない。
だから、きっとそうだろうと自分を納得させても、どこかで自信がなくてイライラしたり不安にかられたりする。
主任は電話したかなと嫌な予感がして、校長に自分も後で確認の電話をした。
電話はきていないと校長は言う。
やっぱりね。もう、あまり驚かない。
きっと、主任は一度かけたけどつながらなかったからまあいいやと思ったとか、そんな感じなんだろう。
じゃあ、校長たちは何の連絡もなく村人と待ちぼうけなの?あり得ない状況だね、もうどうすんの。
それで、今日の中止の件を伝えると、校長自身も学校にいないうえに今日の予定のことを知らなかったという。
さすがにこんな人は今まで監査した10校くらいの人たちの中で初めて。
令状が届いていないというけど、なんで?確かに同じ学校の別のグループの校長が、届けるように視学官事務所職員に言われて、それを事務所から持って行ったのを私は見た。
もう訳がわからない。
私一人が心配をし、焦り、すまなく思い、空まわり。
こんな場面で、私はやっぱり悲しいくらいに外国人、よそものだ。
ベナンの文化や常識が、遠く遠く感じられる。
最後に誤解のないように書いておく。
私は彼らのことをちゃんと物事をきちっとやらないと怒っているのではない。
日本人の一般的な行動がすばらしいのに比べて、彼らはダメだ、とかそんなことを言っているのでもない。
ただ、彼らと自分ではだいぶ常識が違う、と思っただけだ。
それによって事を予測しきれなかったり、また予想の範囲内でもどううまく対処していいかわからなかったり。
そして、その違いを感覚として理解しきれず意気消沈したり機嫌を損ねたり。
自然に受け止めきれない自分のキャパの小ささが、すこし腹立たしかったということ。
*写真:主任こと衛生担当責任者と彼のアシスタント。大切な仕事仲間です。出発前の保健センターで。
2011年4月11日月曜日
10 April. 2011 グラズエモデル
私には夢がある。
この任地でみる夢。ここで、いつか実現されたらと願っていること。
目標というには少し道のりが遠く、任期の2年の中ではおさまらないので夢と呼ぶことにしている。
それは、「グラズエモデル」を普及させること。
グラズエというのは自分の任地の名前。
小さな中部の都市で、ベナンの観光マップを見ても名前は出てこない。
有名なのは、週に一回開かれる巨大な市とヤム芋の名産地ということだけ。
こんな小さな町だけど、ここからベナン全国で模倣できるような学校保健にとりくむ地域の組織体制モデルを生みだす。そして、そのモデルを全国に普及させること。
それが私の夢。
グラズエモデルを一言でいうと?
―地域学校保健委員会を中心として、都市全域を組織化し、学校保健の取り組みを包括的かつ一元的に行う地域体制。
つまり、学校保健委員会の名のもとに関係者が集い、情報や問題の共有、計画立案を行う。
関係者は、会議での決定事項を各々の業務に取り入れたり、それによってお互いの業務を連携させたりする。
そして、委員会加盟校の校長たちは、それぞれの地域のリーダーとして周りの数校を管轄、指導する使命をもつ。よって、会議での決定事項がグラズエの全ての小学校に反映される。
ざっくり言えば、こういう仕組みのこと。
グラズエモデルの重要な構成要素は、次の3つ。
①司令部としての地域学校保健委員会
地域の学校保健分野におけるブレイン。司令部。
現段階での構成者は、視学官、全教育指導主事、複数の小学校の校長(一名幼稚園)、父母会会長、保健センター衛生担当主事、同センター衛生担当官、村落隊員、看護師隊員。
これら学校保健の関係者は、この委員会の会議において考えを出し合い、見解を統一させる。
ここは関係者間の相互理解と連携を生みだす場でもある。
②学校保健分野における地域責任者
これは、有志の小学校校長たち。
この有志の代表団である校長たちは、学校保健委員会の委員であって、定期的に行われる会議に出席する。彼らは、会議やその他の活動を通して学校保健分野に関する知識や考えを深め、他の学校の校長を指導する。また、委員の学校はモデル校であり、パイロットプロジェクトを先駆けて実行にうつす。責任者の数は③の状況による。
③これら責任者による地域での指導および管理体制
委員の校長たちは、自分の学校のある地域のリーダー、つまり責任者である。それぞれのリーダーは、各地域内の5~10校を管轄する。すなわち、委員会で決定した取り組みを自分の受け持っている学校に対して実行したり、課題に応じて指導する。グラズエの150の学校全部をカバーするには、約30校くらいの校長を委員とする必要性がある。
このグラズエモデルの構想が生まれた背景には、
「人材の不足」「組織体制の不備」という二つのキーワードがある。
地域の学校を調査しながら見えた問題は、まず学校保健を専門的に取り扱っている役職が地域に存在しないことだった。
視学官、教育指導主事、校長、父母会会長、いずれの業務の中でも学校保健は努力規定にすぎず、具体的目標や計画が職務規定に記載されていない。
これに対して、保健センター衛生担当主事は学校保健を職務として取り扱う。けれども、同時に他一般の衛生問題や災害対応なども担当しているし、彼一人で150の学校に対してできることは物理的に限られている。
つまり、ベナンの地方都市には主体的に学校保健分野を担う人材が足りない。
そして並んで問題だと思ったのは、部分的にでも学校保健に関わるこれらの役者が各々バラバラに働いていることだった。関係者間で、この分野に関する情報共有や意見交換をおこなう場がないため連携がとれていない。
統一された方針や役割分担がないので、どうしても各々の取り組みが生みだす効果が小さい。
つまり、学校保健にとりくむ組織体制が存在していなかった。
そんな現状から、①②の案を考えた。そして、③の、リーダーを中心に全地域を組織して全学校を取り組みに巻き込んでいくというのは、委員会で校長たちが自ら発案したもの。
こうして、グラズエモデルの鋳型は完成した。
このモデルによって、まず、委員会内での情報共有から、関係者たちが現場の実態にあった取り組みを実現できる。委員会を通じて、それぞれの立場の違いを活かした役割分担ができる。また、全グラズエで統一された企画をうちだすことが可能になる。次に、有志の校長たちのリーダー的役割とこの協調体制によって、地域の人材不足の埋め合わせができる。最後に、これらリーダーがそれぞれの地域を管轄することで、全ての学校に委員会の決定事項を現場レベルで反映させることができる。
こうして、このモデルは、全グラズエでの一元的で包括的な学校保健の取り組みを可能にする。
けれども、グラズエモデルの構想はこれでは完成しない。
それは、持続性の問題。
JOCVがいなければ機能しない組織体制ではダメだ。
最終的には、今は視学官事務所が管理するこの委員会を委員の校長の手にゆだね、自治的な組織に確立させる必要がある。そして、私が行っているこの委員会の調整や運営業務を移転する。
ただ、有志に頼るのは現実問題厳しいので、ベナン政府にこの組織を公式に認めてもらうよう働きかけることも必要だろう。たとえば、今あるPTA組織などのように。政府から少しでも予算が投入されれば、組織の機能は高まり、存在にも安定感が出る。今の政府の学校保健に対する扱いからして、相当難しいことだけど。
ただ、これはもう任期の間でできる範囲にないので妄想の域。もし自分の任期が5年くらいあったならそうした。
ベナンのどの地方都市も体制は変わらない。
だから、私はこのモデルがもしグラズエで実現できれば、どこの都市でも同じように機能すると考えている。
いつか、グラズエだけじゃなくて他の都市でも模倣され、その地域で効果をあげること。
そんなことを夢みる。
①委員会を発足、発展させる⇒②委員の地域責任者としての資質を高める⇒③これら責任者の地域管理体制を機能させる⇒④全部の学校を包括すべく委員校の数を増やす⇒⑤委員会を自治的組織に変容させる⇒⑥教育省からの認知・支持を得る⇒⑦他の都市にモデルを普及させる
そこまで到達するには、何年だろう?
自分の代でできることは、最初の①②③のステップが限界。もちろん、飛び越えて⑥⑦のステップの準備のために、他のJOCVや教育省へのアピールは同時進行で行うけれども。
残り一年の任期はあまりに短い。
私の後任の要請は既にでていて、調整員はこの委員会の機能を確立させることを要請書に書いてくれた。私がここを去っても、今築いている土台を発展させて完成段階を目指してもらえればと思わずにはいられない。なるべくわかりやすく引き継ぎ資料も残す準備をしている。
けれども、どんな活動をするかは後任の自由。JOCVの活動はプロジェクトではないし、代々の継続性は一般的に強くない。押しつけることはできない。
だから、この構想の実現に向かいながらも、やっぱり2年間で目に見える現状の改善効果を出さなければとも思う。
それでも、今の状態はこの青写真のどの段階なのか、一つ一つの自分の活動はどの段階のことを実現しようとするためのものなのかという感覚は持ちながら働いている。
それはとても楽しくて、活動に力をくれる。
このモデルの実現によって、学校保健の取り組みから取り残される学校がなくなり、結果的に多くの児童の健康状態の改善につながる、と信じているから。
2011年4月4日月曜日
31 Mar. 2011 委員会加盟校、前進
前に、地域学校保健委員会加盟校の小学校、Egbessi(エベシ)とOrokoto/A(オロコトアー)について書いたことがあった。
エベシは子供が歌を歌ってくれた、素敵な校庭をもつ学校。
オロコトアーは、委員会加盟校=衛生教育のモデル校だというのに手洗い道具すらない悩ましい学校。
今週またこの二つの学校に訪れてみた。
第二回委員会会議後には初の訪問となる。
前回穏やかな改善の見られたエベシはともかくとして、オロコトアーにはもう祈るような気持ちでハラハラしながら訪れた。
モデル校として程遠い状態だったため、いつまでも何の変化も見られないままだったらどうしようかと。
でも二校ともうれしい誤算というくらいに、顕著に状況が改善されていた。
エベシは好例として紹介した他校の手洗い道具を、校長がさらに改良し見たこともないような器具を開発!!
(←写真1・2)6人の子供が一気にきれいな水で手を洗えるなんてすごい。
そして、オロコトアーにも、教室の前に色とりどりの手を洗うための洗面器(写真3・4)
絶賛しながら握手をいっぱいすると、校長も「へへへ。」というような表情で誇らしげ。
やっぱり自らの意志で委員になると名乗りを上げた意識の高い校長たちだけのことはあるな~と思う。
最近、手洗い器具や手洗いの洗面器を見つけると、テンションが反射的に上がる。
手を洗っている子供の光景は、私をうれしい気持ちにしてくれる。
なんで~?と思うかもしれないが、そこにはベナンの事情がある。
任地にある学校で、校内に水道を持つ学校はほとんどない。
たいてい近くの村のポンプから水をくんで、毎日頭の上にのせて運んでくる。
水を運ぶように子供に指示するもしないも大人。その水をどのような用途に使うかを決めるのも大人。
児童は、教師から提供されない限り、水を自由に使うことはできない。
たとえば、手洗い用の水と石鹸水が洗面器にいれて十分な数置いてあれば子供は手を洗うことができるが、そうでなければ手は洗えない。
でも、子供はそのことに慣れてしまっているので、汚い手でも平気でものを食べる。
さらに、ベナンでは学校で買うことのできる食べ物は普通みんな手づかみ。
汚い手で手づかみ。最悪な二ツ巴。
その結果か、学校によってはお腹が痛い子がたくさんいたり、校庭で吐いたり下痢をしている子がいたりする。
だから、児童の健康状態を改善するための最重要事項の一つとして、学校は手洗い道具を置き、子供に手を洗うよう指導することが求められる。
ベナン政府もそう言ってるけど、なかなか浸透しない。それでもみんなで習慣を改善していかなければいけない。
そんなわけで、重要な指針である手洗い道具と手洗い習慣。
会議でも、それに関する話し合い、情報提供、工夫例の紹介等を行った。
その内容がちゃんと反映されていることがわかったので、うれしいというか、ほっとしたというのが本音。
加盟校がモデル校(他の学校のお手本になるような学校)にふさわしい状態となること。
まずはこれが必須の第一関門。
それがある程度達成されて初めて、描いたシナリオ(学校保健における地域の組織化)の第二幕へと進んでいくことができる。
なんだか次の舞台が見えてきた!
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