2010年12月31日金曜日

28 dec 2010 怒れる教師



今日は、職場の視学官事務所が騒然となった。

大きな声で怒鳴り散らし、視学官事務所の職員に文句を言いまわる訪問者。
若い男性の、小学校教師だ。

理由は小さなこと(ベナンの日常の中では)。
交通費を出してわざわざ視学官事務所まで来たのに、視学官が不在だとか。
必要な書類をなかなか職員が出さないとか。
別にこの人、長い時間待たされていないのに。
ちょっと待ってくださいと職員が下手に出ても、怒鳴る、怒る。

この教師、まるで忍耐力がない。自己をコントロールできていない感じ。
怒るにしても常軌を逸している。

その場に居合わせた他校の校長が、
「あんた、教師か?年長者に対してこんな態度をとるのか?」
と職員をかばうほど。

ベナンでは年長者に敬意を払う文化があり、また視学官事務所の職員はある程度の地位がある。
ここの社会にはここの社会の常識やルールがある。
それにも反しているということだろう。

この人が教師かぁ・・・と思うとちょっと怖い気がした。
教師の質。
ベナンの教育について話すとき、よく聞く問題の一つ。

数年前の政策による小学校の無料化と義務化によって、ベナンは教師不足だ。
急に小学校に通う児童が増えたので、あわてて教師候補を探して採用しなければならない。

この国では教師になるのに、特に資格はいらない。
教師候補にはある程度の教育を受けた人ならなることができ、候補者は地域レベルで少しの研修を受けると採用となる様子。
そのせいか実際「この人どうなの?」と思うような教師に出会うことも多い。(あくまでも個人的な感想です。)

すべての子供を学校に!というベナン政府の政策は、ミレニアム開発目標の観点からも一定の評価を得ているらしい。しかし、同時に教育の質に関して、一部からは懸念もされている。

今日はこの怒れる教師の登場でそんなベナンの現状を思い出した。
子どもたち、この人の下で大丈夫・・?


*写真:一時、騒然となった職場。

27 dec 2010 庭の野菜






自分の任地での楽しみのひとつ。

それは庭で野菜を育てること!


前にも書いたけど、うちの任地には野菜が3種類しか売っていない。
他には、見たこともない地元の謎の草が売っているけど調理方法がわからない。
そのひとつはモロヘイヤであるとの噂もある。でも、どの草がそれだか知る術がない。

なので、任地に配属になってすぐに庭の隙間を活用して自家菜園を作った。

今までにもレタスやブロッコリー、ネギ、サラダ豆が成功!
それらの野菜の収穫時期が終わったので、今回は仲間の隊員が一時帰国の際に買ってきてくれた日本の野菜の種をまいてみた。
白菜、春菊、二十日大根、チンゲン菜、小松菜。
植えかえによってベナンのあまりの日光や熱の強さに半分の株は枯れたけど、生き残りは留守にしていた間に立派に育ってくれた。
既に収穫できるようになっている。(ガルディアン、ありがとー!)

今日は、水炊きにしようと大根をひっこ抜き、葉っぱたちをチョキチョキ切った。

おー、豊作だ!!

庭に種をまくとき、新芽を見つけた瞬間、そして育った野菜を収穫して食べるとき、とても幸せを感じる。
野菜が買えない地域だからこそ、庭になった野菜がめちゃくちゃ貴重でありがたい。
そして、自分で食物を育ててそれを食べて、食生活を豊かにしたり栄養補給をすることは意味深い。
趣味というより、もはや自給自足の生きる糧。

今日のお昼は、すき焼き丼(豚肉だけど!)、夜は水炊き!

特に感動したのは、春菊!!
なんて素敵な香り!!これだけで日本で鍋をした日が鮮やかに蘇る!
おいしい~


*写真:おうちの庭の隙間に生える野菜たち。
   :白菜。なぜか丸まらず自由奔放に外へ伸びる。でも味はちゃんと白菜。奥の葉は豆。
   :とれた野菜たち。チンゲン菜・春菊・二十日大根・白菜。

27 dec 2010 職場復帰



楽しい!うれしい!

仕事ができるっていいな!!

今はそんな気持ちでいっぱい。


復帰一日目の朝。やっぱりちょっとドキドキしながら職場に向かった。

事務所に入った途端、同僚が私を見て歓迎のハグをくれた。

「体はもう大丈夫!?心配してたよ!」

って、本当に嬉しそうに私の復帰を喜んでくれている。
私が戻ってきたことに感動してくれているその様子は、何年かぶりに会った友達とかそんな感じ。

前から、いつも親切にしてくれていた職員の人たち。

それでも、一か月も突然職場から消えてしまって、みんなどう思ってるんだろう?って少し不安に思っていた。

その分、今朝はとても安心したし、地元の人の優しさや温かさをたくさん感じた。

体ももうほぼ完全に回復したし、今日は涼しいので職場で過ごす時間も体力的にそんなにしんどくない。

やっていた活動をちょっとずつ思い出しながら、また始動させていきたい。

エンジン全開。


*写真:職場の同僚の一人。快く報告書のフランス語を直してくれたりする。

26 dec 2010 任地に帰還
















約一か月ぶりに任地のグラズエへ戻ってきた!

もといた場所のはずなのに、バスが任地に近づくとなんだかドキドキ・・


家にたどりつくと二人のガルディアンが門の外にいて、私を見るなり「おかえりなさい!!おかえりなさい~!!」と、とても嬉しそうに出迎えてくれた。

あ~、やっぱりお家っていいなぁ。

もう一つ嬉しかったのは、2人のうち一人がレオナだったこと。
この前うちの二人のガルディアンともめたせいで、レオナはうちにあまり来なくなるんじゃないかなと思ってちょっと心配していたけど、前と変わらずこうして訪れてくれている様子。
そしてもう一人は、私がマラリアでコトヌーに発つ時にタクシーを呼んで見送ってくれた方のルシアンというガルディアン。

「留守中にちゃんと警備しててくれてありがとね」とコトヌーで買ったおみやげの特大のパンをあげると、二人はとても喜んでくれた。
普段は、他の都市に行っても毎回おみやげをあげるということはしない。
毎回だとこっちの人は期待して「今回はないの?」とか言い始める傾向があるため・・。
でも、今回はコトヌーでの療養で家を長く空けたし、色々よくしてくれたからお礼をしたいと思った。
特にルシアンは、何度もメールや電話をくれて体調を気遣ってくれたり家の様子を知らせてくれた。
良くなるように毎日神様に祈ってます、と私がマラリアでまだつらいときにくれたメールには本当にじーんときた。


コトヌーで買った食材をとにかく早く冷やそうとキッチンにまず入ると、何か様子がおかしい。

室内が全体的に茶色い。
床、キッチンの台、まな板、貯水バケツ、全部が砂まみれ。

これはもしや・・

「もしかしてハルマッタン来た?」私が聞くと、「はい、何回も!!」とガルディアン。

ハルマッタンというのは(よくわからないけどたぶん)砂漠の方からくる砂嵐のようなもので、ベナンの北の地域が毎年この季節に襲来を受ける。
町中が砂まみれになるらしく、去年は同任地の隊員が喉がおかしくなったと言っていた。
目も砂で痛くなるとか。←コンタクト泣かせ!

通気性が悪くなるとかび臭くなるので、窓のブラインドを少し開けたままにしておいたせいで家中が砂まみれだ。
床はもちろん、ベッド、ソファー、テーブル、なにかもがうっすら茶色い!
ちょっと動くと砂埃が散る。

居る場所がない・・。病み上がりに長旅で疲れたけど横になる場所もない・・

ガルディアンが「中、掃除しますね!!」とがんばってくれたけど、それでも時間はかかる。
自分もあちこち拭いたりして労働をよぎなくされる・・

やっぱこの国は体力勝負ね、とまたまた実感。

さすがにヘトヘトなので、シーツを変えるのはこの日はあきらめ砂まみれの上に布をしいて寝た。
砂埃が舞い、くしゃみが出た。

でも、やっぱり家って良いもの。

落ち着く。

8か月暮らしてきた場所だものね。

壁に色を塗ったり、家具を少しずつオーダーしたりして作り上げた自分の空間。


*写真:我が任地グラズエ。週一に開かれる市場の日に撮ったから、人や車がいっぱい!
   :うちの家。テーブルクロスはルシアンの奥さんが編んでくれた。ソファーはベナン布のカバーで、こうして見ると結構派手ね。    

2010年12月22日水曜日

21 dec 2010 さんまのからくりに出てた彼!


今日は、離任直前のJICA調整員と食事に行った。

コトヌーの某ホテルのレストランでガールズトークに花を咲かせていたところ、ホテルに入ってきた一人のベナン人を見て彼女のテンションが急激にあがる。
古い友人で5年ぶりの再会らしい。

このベナン人の彼、ものすごく日本語がうまい。
びっくりしてしまうほど流ちょうに話すし、「縁があるね」とか日本人のような表現や日本文化由来の言葉を使う。
髪もおしゃれに編んでいて、なんだか他の人と雰囲気が違うな~と思っていた。

そして、二人の話をしばらく聞いていると・・・

彼が「さんまのからくりテレビ」のファニエスト外語学院でボビーオロゴンらと一緒に出演していたベナン人アドゴニーだということがわかった。

その後、結局、3人でごはんを食べたけど彼は本当に面白い人だった。

弾丸トークでたくさん自分の話を語ってくれ、いっぱい笑わせてもらった。
さんまのからくりでは、すぐ泣いたり、ヘタレキャラという芸風だったらしいが、確かに「たくさん泣いたよ」とか泣いた経験の話はよく出てきた気がする。
でも、基本スーパーポジティブで頭がとてもいい人だと思った。
アドゴニーの知性とか考えとか経験には、感銘を受けるところが多い。
日本が大好きで、日本の美徳も理解してくれている。
海外暮らしが長いアドゴニーだけど、ベナン人にもこういう人がいるんだなぁと思い嬉しくなった。

「アフリカで活動しているJICAボランティア、私は尊敬しますよ。自分にはできないですよ。ベナンの人は日本の生活を知らないから、日本の環境で暮らしてきた日本人がベナンに住んで働くということがどれだけ大変か、ベナン人にはわからないですよ。」
という彼の言葉にはおもわずウルウルきてしまった。
「アフリカで活動したその経験で一回りも二回りも人間が大きくなって日本に帰ったときには(いい意味で)全然違ってますよ!」とも言ってくれた。

正直、ベナン人である彼にこう言ってもらったことでなんだか報われたような気がして張り詰めている気持ちが緩んだ。それで涙腺も緩んだ。
「国際協力は感謝されるために行うのではありません。」とは、JICA理事長・緒方貞子さんの言葉だ。
そのとおりだと思う。
だから、私が現地の人と同じように暮らしたり現場で働いたりすることをベナンの人たちが当たり前のように思っているとしても「そういうもの」。
それでも、こうしてベナンの人に逆に日本人の立場にたってものを見て、理解してもらえたことが本当にうれしかった。

今日はたくさんパワーをもらった。
アドゴニーは年に2回しかベナンに来ないらしいが、今後も彼のパーソナリティを活かして世界を舞台に活躍していってもらいたいなと思う。
Merci beaucoup! Bonne chance pour toi !!

2010年12月21日火曜日

20 dec 2010 ベナンの子供 その2














ベナンの子供たち。

日本の子供とは違うところも多いと思う。


今日の出来事。

道路を横断しようと、車の切れるタイミングを待っていた。
コトヌー(ベナンの経済首都)は車やバイクの交通量がとても多く、信号や横断歩道がない。
だから、道路を横断するときはタイミングを見計らっておもいきって走る!結構、命がけ!

隣で同じように横断しようと待っている男の子。小学校低学年くらい。
少し車が切れたとき、私の手をとって一緒に走ってくれた。
危ないから知らない人同士でも手をつないで集団で渡る、というのはベナンでは一般的だけど。
手をひいてくれたその子の行動は、「今、いけるよ!」って私を先導してくれたような雰囲気だった。
渡り終わった後は、言葉も交わさず違う方向へ歩いていく。

こんな風に時々、ベナンの子どもはとてもおとなびて見えることがある。

小さな子供がさらに小さな弟や妹の世話をしている。
面倒をみている方の子供だって日本でならまだまだ面倒を見られる側なのに、責任をもって弟や妹の面倒をみている。
そして、それがとても自然な姿に見える。子どもたちは当たり前と思っている様子だ。

店番をしたり商店を手伝っている小学校低学年の子供はどこででも見かけるが、本当に子供なのか、と思うくらいプロだ。
値段交渉からおつりの勘定まで、大人のやっていることにまったく引けをとらないくらいしっかりやる。
子どもの格好をした大人を見ているようで不思議な気分になる。

自分が子供のころは、友達と遊んだり勉強したり。
子供は子供時代にしかできないことをやりなさい、という感じの毎日を過ごした。

ベナンの子供は子供のころから大人と同じようなことをたくさんしているように思う。
色んな行動や生活、そして雰囲気、日本の子供とは異なる点は多い。


*写真:コトヌーで今日横断した道路
   :子供をおぶって面倒を見ているお姉ちゃんと弟

20 dec 2010 ベナンの子供 その1



*写真は、学校にきた白人を見たい!と私のいる教室を外からのぞきこむ子どもたち。










ベナンの子供たち。

かわいいと思ったり、腹立たしく思ったり、えらいなと思ったり。


療養中のある日のこと。                

久々外を歩いてみると、通りに子供たちが。
ベナンの出生率は平均6人。だから子供がどこにでもいる。

私を見たその子供たち。

「ヨボー!」(現地語で白人という意味)通りの向こうから叫ぶ。

そして「ヨボヨボ、ボンソワ!サバビアン、メルシ!」(白人白人こんばんは!私は元気です!)というおきまりの歌を歌う。
ちなみに朝でも必ず歌詞は、こんばんは。

イラッ。

私はこの歌が好きじゃない。

ベナンじゅう全国どこでも歌われる、このヨボの歌。子供はどこからともなく自然と覚えるようで、白人を見ると歌う。
イメージとしては、センサーで反応して動き出すぬいぐるみのおもちゃとか、そんな感じ。
どうポジティブにとらえても、私には、はやし立てられているようにしか思えない。
昔、宗主国のフランス人がベナンにやってきたときにこの歌を子供たちに教えて歌わせて自分たちを楽しませた、という説もある。
本当かどうかは知らない。
子供が現在、どういう感覚でこの歌を歌っているのかもわからない。

そういうのもあってヨボ(白人)という言葉自体あまり私は好きではないが、前を歩く小さな女の子。
ちょっと振り返って私に「ヨボっ」とかわいい笑顔で言う。
とってもかわいいので、笑顔で手を振ると、嬉しそうに手を振り返す。
門を曲がるときもまた笑顔で手を振っている。
ヨボって言われるのは好きじゃないけど、子供には悪気が全然ないことを改めて感じる。

すごくかわいい。

19 dec 2010 療養コトヌー生活3週間

ー3週間ー

マラリアに罹ったことで職場に穴を空けた日数。
そして、コトヌーに滞在していた日数。

マラリアそのものの症状は10日くらいでなくなり、その後一週間くらいで血液検査の数値(肝機能の値や血小板の数)が回復。
けれども、マラリアの打撃が体に及ぼした影響から回復するのにまた1週間。
だらだらと体調がすっきりしない日が続いた。

体がだるいと活力全般が失われる。
この間、任地に戻ろうという気力や仕事でどうしたいとかいう考えがほぼ消失した。
コトヌーはなんでもある~、おいし~、ネットができる~

任地の不便さばかりが思い出され、まるで帰ろうという気にならない。


任地の何がつらい?

-食品の種類の少なさ【野菜が通称3種の仁義<トマト・オクラ・たまねぎ>しか売ってない。たま~にしか牛乳やソ ーセージの仕入れがない。外食のバリエーションもほぼない】
-暑さ【エアコンなんてどこ行ってもない。家は片側にしか窓がついておらず、風とおしが恐ろしく悪い】
-住宅環境【家が小さく、部屋は友人隊員のトイレくらいの広さ。家がやもりの糞だらけ。虫の館。ネズミのすみか。雨漏りがする上、風通しが悪いため、寝室が超かび臭い。】

ついでに言うと、毎晩停電。
ネット回線なし。

協力隊員だろ!アフリカなんだからそれくらい当然だろ!好きで行ったんだろ、愚痴るな!
・・と叱責されるのは承知。

そんな不便さにも結構なれていたけど、便利&きれいな隊員連絡所の環境に甘やかされると、一からやりなおしな感じ。

あれだけ高まっていた仕事のモチベーションも職場を休みすぎて、やっていた活動の内容すら忘れてきてしまい低下。
さらに年末の中途半端な時期に突入してしまったこともモチベーション低下の原因に。

まー、てきとーやるかー。
任期だけは満了したいけどー。

ってな気分に陥りそう。


そんな時、

「あきらめたら、そこで試合終了ですよ。」

スラムダンクの安西先生のあのセリフが頭に浮かんだ。


後ろ向きな気持ちのまま惰性で過ごす隊員生活なんて意味ない。

なにも提供できないし、何も学ばない。実質、ベナンにいたって終了と同じ。

そんなんだったら今すぐ帰った方がいい。



・・とごちゃごちゃ考えているうちに、体調が回復。

今は気力も充実してきた。

任地の不便生活は若干まだこわいけど。

仕事はひとつひとつ組み立てなおしていきたい。時期とか関係なく毎日を真剣な活動の時間にしようと思う。
穴をあけた分、職場の人に対しては真摯に対応するように心がけたい。

協力隊は、別名JICAボランティア。

ボランティアっていう名前がついていることで、プロじゃないような響きがするかもしれないけど。

プロ意識をいつももっていたいなーと思う。

6 dec 2010 マラリア

マラリアに罹った!

マラリアは、マラリア原虫をもった雌のハマダラ蚊にさされることで感染し、治療が遅れると死に至ることもある世界3大感染症のひとつ。
対内に入った原虫は血管の中で赤血球を破壊していき、症状が出てから3日から5日以内に抗マラリア薬を飲まないと手遅れになるといわれている。

西アフリカは大抵の国がマラリア汚染国で、ベナンもそう。

マラリアには予防接種はなく、予防薬のみが存在する。
けれども、この予防薬で副作用が出たという隊員は珍しくない。
不眠ぎみになったり、悪夢をみたり、気分が沈んだりという症状だ。
だから、ベナンでも一定数の隊員が服用を断念。私も飲んでいなかった。
そのぶん、もちろん防蚊対策はしていた。
家では蚊取り線香をたき、扇風機をまわし、虫よけスプレーをふって外に出、蚊帳をつって寝ていた。
でも、どこかでハマダラ蚊にさされたらしい。

ガルディアンとの話し合いの後(前の記事参照)、どうも体がほてる。
日の当るところに長時間いすぎたから日射病かな?
氷などで体を冷やすこと数時間。
眠りに落ちて、目が覚めてもまだ体が熱い。夜8時くらい。
これはちょっとヘンと思って熱を測ると38.6度。
あらあら、熱がある。
いよいよ日射病か熱射病っぽい。

でも高熱だし、一応、事務所から支給されている簡易マラリア検査キットやっとくか。
中指を針でブスッと刺して血を出し、検査。
二本線が出たら、陽性。つまりマラリアだ。
じぃっと見ていると、あれ?うっすら真中に怪しい線が。
陽性!マラリア原虫が体内にいるよー!
日射病だと思っていただけに、びっくり。
でも、簡易キットの精度は95%以上と言われている。

JICAの健康管理員(看護師さん)に電話すると「じゃあ、手持ちのマラリアの薬を今すぐ飲んで、明日朝いちで、タクシーを借り上げてコトヌー(ベナンの経済首都)に上がってきてください!」との指示。
任地からコトヌーまでは順調にいってもタクシー(乗合タクシー。バスはない。)で4時間半だが、任地は地方の小さな町で、信頼のおける医療機関がないので上京するしかない。

深夜、熱冷ましがきれると猛烈な嘔吐と下痢、そしてものすごい悪寒。
寒くて仕方がない。ガタガタ震える。
でも、ベナンは熱い国だから家に毛布とか・・はない。
まさに地獄。

数時間苦しんだ後、熱冷ましが効いて朝になった。
ガルディアンがタクシー乗り場までタクシーを拾い、家まで呼んでくれた。
家を発つとき、「Bon guérison!」(早く回復しますように!)と言って、助手席のタクシーの窓に無理やり手をつっこんで後部座席に乗っている私に手を振り、心配そうな顔を見せてくれたガルディアンが印象的だった。

コトヌーの隊員連絡所(ドミトリーと呼ばれ、隊員が宿泊できる場所)の療養部屋で高熱と吐き気と戦うこと2日。
症状がなかなかおさまらないので入院。
一日中点滴をされ続ける。
熱は入院後2日くらいでひいたが、吐き気がおさまらない。
結局1週間くらい入院していた。

マラリア、恐るべし!
ほんとに苦しい。
高熱が出ている時にはものすごく弱気になり、意味もなく後ろ向きな気持ちになった。

今だから言える高熱中に思ったこと。

「もう二度と海外で暮らすなんてやめる!これが海外で暮らす最後だ!」
「他人の国に住もうなんて考えがバカだった!日本人は日本に住むべきだった!体がついてくはずない!」
「もう日本に帰りたい!残りの任期まっとうできないかも!」
「西アフリカにまつわるもの、みんな嫌!」
「人生の幸せは仕事より暖かい家庭だ!」

うーん。全部、意味がわからない。

ちなみに普段はこんなこと全然思っていない。

病気ってコワイ。

ベナン人もマラリアにはもちろん罹る。
日本人ほど重症化しない人も多いような気がするが(あくまでも印象。)マラリアが人々を悩ませているのは間違いない。
小学校でも「マラリアで学校を休む子供が多くて困る」と話す校長に何人かこれまで出会った。

どうしたらこういう感染症の恐怖や弊害から、ベナンの人々は解放されるのか。

日本には存在しない病気。マラリア。そういうものがここ、ベナンには存在するということ。

2010年12月13日月曜日

26 nov 2010   警備員、もめごと勃発

ガルディアンたちの中でもめごとが勃発!

うちのガルディアン(警備員)事情は前に書いたとおり(記事NO2参照)
今や家族化している。
信頼もおけるようになって平和に暮らしていたのだけど・・

昨夜、キッチンに行くのに外にでると、二人のガルディアン(日勤の方と夜勤の方)がそろって私を呼びとめる。
「実はちょっとした問題(プチ・プロブレム)があるんですけど・・」

だいたいベナン人がプチ・プロブレムというときの問題は、あまりプチでないことが多い。
嫌な傾向、と思って聞いていると案の定。
ガルディアン同士の人間関係の不満がでるわでるわ。一時間はしゃべり続ける。

簡単に、うちの町のガルディアン(警備員)の体制を説明しよう。
うちの町には私を含め日本人ボランティアが二人いる。
そして二人とも同じ警備会社から2人ずつガルディアンを雇っている。
もう一人の隊員は私より先輩なので、彼女が雇っているガルディアンの一人が4人のガルディアンの中で一番先輩ガルディアンである。この一番の先輩ガルディアンLeonard(レオナ)は古株なだけでなく警備会社で研修を受けたことがあり、社長からも信頼をおかれている少し別格な存在。
だから、彼はうちの直接の警備員ではないけど、うちにもちょくちょく訪れて私を助けてくれたり、うちの警備員たちの教育や監督を行ったりもしている。
けれども、これは彼が自主的に自分はちょっと別格だから、先輩だからと言ってやっていることで、特にそういう役割を本部の警備会社から公式に頼まれているとかではない。

その辺が今回のややこしい事態を招いたのだと思う。
要はうちの二人の警備員たちはレオナにいちいち指図されたりするのが気に入らない。
聞いていると、レオナの指導や監督の理不尽なところをかたっぱしからあげたあげくに彼をうそつき呼ばわり。
今回は、警備会社からの自分の給料を彼がピンハネしたといって不満が爆発。
レオナが今まで、問題点を指摘して他のガルディアンをやめさせるように私たちに打診してきたことは何回かあったが、それも彼らに言わせると全部レオナのでっちあげの陰謀だとか。
彼らはレオナに逆らうと、そうしてクビにされるから反論もできないという。
なんというか、今まで4人のガルディアンチームのリーダーとしてやってきたレオナに対するクーデターのようだ。

レオナに対しては格別な信頼をおいてきた私と仲間の隊員。
そんなことを言われても、にわかには信じられない。
でも、うちの二人の警備員は口をそろえて、レオナを信じないで!うそつきはレオナだ!という。
二人もうちで半年も働いている警備員だし、信頼したいのはやまやま。

もう、いったい誰を信じていいのやら・・
これじゃ、「さーて、3人の中でうそをついているのは誰でしょう!?」という、矛盾点を見つけてうそつきを探し出す昔やったゲームのようだ。

なので私はみんなで一度ミーティングをして本音を言い合ったらどうかと二人に提案した。
「ここで不満を言われてもお互いの言い分に食い違いも誤解もあるだろうから、明日私たちのたちあいの下でレオナに正々堂々今言ったことを言ったらいい。そして、レオナの意見も公平に聞こうじゃないの。」と。

そして今日、もう一人の隊員とレオナを呼んで真昼間の暑い時間だったが、うちの庭先で話し合いを行うことになった。
なんだか村落開発普及員の仕事を、職場以外でもやっている気分だ・・。
休み時間なのに・・

そんなで始まった話し合いだったが、なかなか二人は昨日言ったことを自分から言わないし、互いの顔色をうかがってばかり。
あれだけ昨日は話し合に乗り気だったのに、今日はもういいよ、みたいな雰囲気。
なんで?
けれども、ためこんでいては何の解決にもならないので、こっちがちょっと誘導すると次第に話し合いはヒートアップしてきた。

二人の解釈とレオナの言い分には相当な食い違いがあることが判明。
要は、ただの誤解じゃないのか。
だから、誤解だから誰が悪いわけでもないし、これからコミュニケーションをお互いによくとってやっていってちょうだいね、となだめる私たち。
なのに、彼らにはいまいち伝わらない。
どっちが正しいか、みたいな対決姿勢をくずさない。

レオナは、私たちが自分を信じてくれていないと泣き出す始末。
いやいや、そういうこと言ってないでしょ!
信じてないとか言ってないでしょ!
でもレオナの悔し涙は止まらない。
肩を震わせ、こぶしをにぎりしめて子供のように嗚咽し、
「神のみぞ知るですよ!」と天を仰ぐ。
レオナは40近い2児のパパだ。
だけど、まるで少年のように泣く。

ちなみにベナンの男性はよく泣く。
たとえば、クビだと言われると「許して、考えなおして」と言って泣いたりする。
だから、珍しいことではないのかもしれないけど、正直日本人の私たちには、泣きじゃくる40歳のおっちゃんをどうしていいかわからず、ひたすらおろおろするばかりだ。
何を言ってもダメなので、もう一人の隊員は「もう、同じことばかり!そんなの自分たちで解決してよ!」と言って怒って部屋に入ってしまった。

焦る警備員たち。
雇用主を怒らしてしまったという気まずさも相まって、なんとかその場はおさまり話合いはおひらきになったけど、解散してからも現地語で激しく言い合っている声がやまない。

まったく、どう収集したらいいんだよ。

唯一安らげるはずの自宅の庭先で、ガルディアンたちが激しく言い争っているのを部屋の中から聞いていると、なんだか追い詰められた気分になってきた。
家の外では色んなベナン人に気をつかったり、時には好奇の視線や心ない中傷にも耐えながら暮らしているのだ。
せめて、せめて、自宅くらいでは何もストレスを感じたり、心配をしたりせずに心穏やかに暮らしたい。

頼むから仲良くして。
頼むから、私が自分を信じてないなんて不信感を持ったりしないで。
前みたいに平和に暮らそうよ。

こんな話し合いの最中ですら、彼らは自分たちは家族だからという言葉を口にする。
私だって家族だから、ちょっとのもめごとやそれに伴う煩わしさで彼らとの良い関係をあきらめたくないと思う。
だからこうして、暑い中、1時間以上の話し合いの場を設けたりしている。

でもこんな問題を抱え続けるならそれは結構つらい。
自宅では安らぎたーい!!

雇用関係ということで、一線をひいてガルディアンとつきあっている隊員は多い。
それもかしこいと思う。

でも、私はまだこの家族的なやり方でいい方向にやっていけると信じたい。

2010年12月5日日曜日

25 nov 2010 第一回地域学校保健委員会会議



第一回 地域学校保健委員会会議開催!

予定時刻より大幅に遅れて始まった会議。

そんなことはベナンでは当たり前。だから問題なし。

視学官からの令とあって欠席者はやむをえない急用の入った委員を除いて全員参加。

地域担当者や父母会会長もしっかり出席してくれた。

視学官はすばらしいイントロで委員会の存在意義を皆にアピール。

会議は結局2時間強におよび、予定を組んでいたプログラムの中にないにも関わらず、学校保健の問題全般に関して熱い議論が交わされる場面もあった。

これは参加委員の意識の高まりを象徴するように思うので嬉しい誤算だった。

今回は初回会合なので、委員会の趣旨や狙い、委員の役割決め、委員会の方向性にかんする討議という内容だった。

委員会参加校はすべてモデル校として地域の見本になってもらいたいというメッセージを、委員の校長たちは満足げに受け入れてくれたように思う。

また、グラズエというこの地域からベナンにおける学校保健にとりくむ組織体制のモデルを築いてもらいたいとのJICA調整員からのコメントを視学官が伝えた場面では参加メンバーの士気の高まりが感じられた。

ベナン人は一般的に誇り高き人々なので、彼らのプライド(たまに見栄とも思われるが・・)をいかにくすぐりモチベーションを高めていくかというのはキーになると思っている。

そういった意味で、今回の第一回会合はいい滑り出しだったと思う。

今回の会議を終えて大きなプレッシャーというか責任として感じたことは、とにかく委員のモチベーションをいかにして保ちつづけるかということ。

今後も彼らに委員としての役割や責任をいい意味で実感しつづけてもらい、うまく組織を機能させていくように考えていくことが必要だ。

そのためにはスタディーツアーなどの効果的な機会をつくっていくことやある一定の権限授与など、具体的にどんどん企画していくことが不可欠だと思う。

自分の中で課題として残ったのは、まだパイロット段階の委員会にも関わらず、全部の学校を包括する組織体制を委員会を中心に作ろうという話がでてきた点。

10人の委員がそれぞれの地域の学校をとりまとめて組織化するという案だ。

しかし、これは正直今の段階では厳しい。

一番の理由は、JOCVが10の地域でのとりくみをサポートするのは時間的物理的に不可能に思われる点だ。

しかし、せっかく出てきたアイディアなので小さな規模で試してみるなり、ひとつの地域をまずモデルとしてこの形で先駆けて始動させてみるなり、アイディアを実現可能な形に修正できるようちょっと頭をひねってみたいところだ。

みんなこの形でやる気になっているので、私にとっては難しい宿題が残った。


会議全体をとおして、司会進行は視学官、地域担当者を中心として行われ、私は会議の方向性をキープすることと議事録をとることに専念することができた。

フランス語に関しても、さして問題はなかったのでよかったよかった。

正直、長時間議事録をとりながら会議の流れをつかみ続けるのは、かなりの集中力を要して、会議が終わると疲れがどっと出た。

そして、変な緊張状態というか興奮状態がさめず、近くのカフェでビールを飲んでなんとか冷ました。(ちなみにベナンではお昼ごはんでもビールを飲むのが一般的)


初めの一歩。

私の活動の中では画期的な一歩。

地域にとっても画期的な一歩であってほしい。

そうであったとこの第一回会議を振り返れるかどうかは、今後のとりくみにかかっている。

24 nov 2010 委員会会議前日

第一回地域保健委員会の会合がついに明日実現されそうです!

ほんとーに嬉しい!!


この委員会は、学校保健における地域のキーパーソンを組織化しようと考えて、自分が新しく立ち上げたもの。

(前回の記事でもちょっとふれたけど)

というのも、任地のグラズエという都市には学校保健を担当する人がほとんどいない。

視学官事務所の職員は他の用事で忙しく、学校保健のことは後回し。

保健センターには学校保健を扱う担当者が一名いるけど、150校全部を受け持っていることと、学校保健以外の地域の保健問題も担当しているので手が回りきっていない。

JOCVとして学校保健を担当している私はというと、2年が終われば帰る一時的な人物だし、一人の力は小さい。

学校保健にとりくむ組織体制や、リーダー的人材が地域にいないことが学校保健分野の課題がなおざなりにされがちになる根本的な理由だと思う。

そこで立ち上げたこの委員会。

メンバーは、視学官、視学官事務所地域担当者全3名、有志の小学校校長10名、地域父母会会長、保健センター地域衛生担当者。これをJOCVがバックアップする。


けれども、生みの苦しみは大きい。

配属先長である視学官に、こういう理由で新しく委員会を地域レベルで立ち上げたいと話したところ、よしやろう!ということで委員会は比較的スムーズに立ち上がった。

校長会議の場で、有志で委員になってくれる校長を募ったところ予想を超える数の校長が名乗りをあげてくれた。(多少事前に根回しもした)

けれども、この委員会の第一回の会合を開くのに、すでに立ち上げから1か月以上もかかっている。

視学官が中心となって、視学官事務所の公式の令として委員会の会議の招集を行うと言ってくれ、これは権力社会のベナンにおいて効果的だ。

けれども、会議は視学官と何度も日程を設定しては延期になった。
視学官の予定がつかないのだ。今日は他の都市から市長が来たから、今日は試験の訂正に他の都市に出張になってしまったと、ドタキャンばかりが続いた。

何でも突発的なことが多いこの国の慣習からして、前日や当日に予定が変更になることは珍しくない。

けれども、3回も前日に予定が入ったと視学官から言われて延期を余儀なくされた暁には、視学官は本当に会議を行う気があるのか?
学校保健のとりくみなんて結局副次的なもので、都合がつけば・・くらいに思われているのかと、かなり落ち込んだ。

なんだか虚しくなってきたし、委員会立ち上げの企画自体が実現可能性の低い、高望しすぎた企画だったかとだんだん自信もなくなってきた。

けれども、「生みの苦しみですね」「新しい取り組みの先がどうなっていくのか個人的にも見てみたい」というJICA調整員の励ましや期待には支えれたし、
「新しいものを立ち上げてそんなすぐに軌道に乗せるのはムリだよーベナンでは!立ち上げただけで大きな一歩だよ!」と励ましてくれた同任地の隊員の言葉にはとても慰められた。
とりあえず感謝感謝。

そんなこんなで迎える明日の第一回委員会会合。

雰囲気的に、今度こそドタキャンはなさそう。

これからの委員会での活動にさきがける記念すべき日。

だから私はとってもうれしい。

仕事のモチベーションも右肩あがりだ。

20 nov 2010 活動の話



写真①視学官事務所からみた外の光景。向こうから歩いてくるのが配属先長の視学官。
写真②私の配属先の視学官事務所。

お仕事の話。

私のここでの任務は「啓発による児童の健康状態の改善。それによって小学生の修業率を上げること。」

簡単にいうとどういうこと?

ベナンは何年か前の改革によって、みんながタダで小学校に行けるようになった。また、行かなきゃいけない、と義務化された。

だけど、卒業できなくて途中でやめてしまう子供が多い。

理由はたくさんある。たとえば親が子供にうちの畑仕事や商売を手伝わせたいので学校に行かせたがらないとか。

そんな数ある理由の中の一つとして、病気によって学校を休んで授業に遅れをとりやめてしまう子供がいることにベナン政府は着目している。

そこで、児童が病気にならないための取り組みを強化しようというプログラムがベナンにはある。

病気の内容はさまざまだけど、マラリアや不衛生によって引き起こされる感染症。下痢とか寄生虫とか。そういうものがあげられる。

だから、どういう形の活動かは問わないので児童がこういう病気にかかるのを少しでも減らすこと、というのが私の任務だ。

もちろん医療行為ができるわけでも薬や設備を提供できる立場でもないので、おのずと活動は啓発(児童や学校関係者の意識改善)を通してということになる。

つまり、ご飯の前やトイレの後には手を洗いましょうとか、トイレは草っぱらではなくてトイレでしましょうとか、どうして汚い手でものを食べたら下痢をするのか、とかそういうことを教えたりすることを通して、人々に習慣を見直してもらう。

また、現状では衛生環境を整えることの重要性を先生たちがあまり理解していないから、学校にトイレがなかったり、あっても使えない状況のままほったらかしにされていたりする。

学校に手を洗う水がなかったり石鹸がおいていなかったりということも一般的に見られる問題。

先生の理解度を子どもの習慣は反映する。衛生環境の悪い学校では、子供は手を洗ったりトイレを使ったりしない。

そういう学校には病気の子供が多く、授業中の教室や休み時間の校庭で吐いている子供がいたりする。

だから、学校の衛生環境を整える必要性を学校関係者に呼びかけたりすることも啓発内容としてあげられる。


じゃあ、どうやって「啓発」を行っていくのか?

私が担当する地域には公立だけで150の小学校がある。

ひとつひとつの学校を訪れて児童に直接、衛生指導をする?

そしたら、たぶん任期の2年間で一校につき一回か二回の訪問指導をしたら終了だろう。学校は20キロ圏内に点在していて行くだけですごく時間がかかる。移動手段は自転車のみ・・

それに、自分がいる2年間が終われば、また学校の衛生問題について取り組む人がいなくなってしまって一時的な改善も続かないのでは?と思う。

それならば、地域でこの課題(「学校保健」と呼ばれる課題)が継続的に取り組まれる体制をつくることが効率的なんじゃないだろうか。

そんなわけで、考えた作戦が、

「地域で学校保健にとりくむ指導者を育てよう。継続的に学校保健にとりくむ組織体制を地域に作ろう。」

ということ。


具体的には、

①地域に「指導者学校保健委員会」を発足させ、現状の問題解決や改善にあたる役割を負わせる

(委員会は、視学官事務所(教育省の地方事務所)の視学官(その組織のトップ)、保健センターの衛生担当者、地域PTA会長、有志の小学校校長約10名で組織)

②小学校校長に対して学校保健に関する講習を行う。彼らを中心とし各校の環境整備、教師や児童に対する指導を行ってもらう



地域の指導者が学校保健の重要性を理解したり、彼らがこの課題に取り組む体制をつくることで、トップダウンの形で現場に反映させようというもくろみだ。

①は同じ課題にとりくむJOCV(ベナンでは13人いる)の活動の中で前例のない取り組みなので、どうなるかまだまだ未知数。課題も山積み。

とにかく、いつかいなくなるJOCVなしでも、地域で学校保健の取り組みが継続され、持続的な改善がなされていくこと、これが私の願いだ。

日本人のいた2年だけは学校がきれいだった、というのではあまり意味がないと私は思うから。


*JOCV=JICAボランティアのこと

20 nov 2010 カナダからのおともだち

交友関係の広がり。

それはカナダのNGOの人たちと友達になれたこと。

私の任地に外国人は少ない。たぶん数えるほどしかいないし、西洋人なら、援助関係者にまちがいない。

(中国人も少数いるけど、商売のために移民してきたか流刑になった人が主で、あまりフランス語が話せないことが多い)

そんなわけで、外国人というだけですぐに友達になれたりする。援助関係者ならなおさらだ。

カナダのNGOの人たちとのつながりは、集団でごはんを食べているところに話しかけていって電話番号を聞いたのがきっかけ。

もともと話しかけた人たちはすぐにカナダに帰ってしまったけど、帰る前に任地に残っているほかのカナダ人がいるといって引き合わせてくれた。

それが今ともだちの、アンちゃん。

年齢も近い。

この土曜はアンちゃんの住むおうちに招待してもらったので遊びに行った。

彼女はかなりの村落部に住んでいる。

家には水道がなく、ポンプから水を現地の人に運んでもらっている。電気は自家発電。

今は同じカナダのNGOの男の子とハウスシェアをしていて二人暮らし。同じ村にはアメリカのピースコープボランティアも一人いる。

家は結構広いけど、正直たくさんのものはない。家のつくりはベナン風でキッチンやトイレが外にある。でも雰囲気が不思議と西洋風。

住む人がカナダ人だとこうなるんだな~。

彼女たちのハウスシェアは何かと問題も多そうで、飼っている犬を家に入れるなとか、割り勘する水代が高すぎるとかいって始終もめていた。

アンちゃんがマカロニにツナとコーンを混ぜたサラダを作ってくれてお昼ごはんをごちそうになった。

細かいことだけど、コーンはコトヌーでしか買えないのに日常でこんな風に食べているということはかなり買いだめしてるんだろうなぁ。

私は割と現地のものだけでおぎなおうとするタイプだからだいぶ違う。コトヌーで買ったものを使い果たすのが怖くてケチって結局ずっと置いといてしまうし。

ご飯をごちそうになった後、彼女のオフィスを見せてもらって、カフェ(んー、そんなおしゃれなものじゃないけどね)で飲み物を飲みながらたくさんの話をした。

というより、たくさんアンちゃんの話をきいた。

正直きついところもあった。それは言葉の問題。

というのも、アンはカナダの中でもケベック州の出身で話すのはケベックフランス語。

しゃべるの早いし、発音がすごく違う。フランスフランス語ならテレビで慣れてるし、ベナンフランス語もまあまあいけるようになってきたけど、ケベックのは未知の何かだった。

やばい、言葉が滑ってく、聞き取れない、一個一個の単語がつかみとれないというかんじ。

ゆっくり話してってもちろん言ったけど、エキサイトしてくるとスピードは加速。止まらない。

アンはウスシェアや他の援助関係者との小さいコミュニティの中でストレスを抱えてる様子で、色々話したいことがあるようだった。

私が半分くらいしか理解してないってわかってるかどうか知らないけど、まあ話すことですっきりしてくれてるならいいかと。

言ってることがもっとはっきり細かいところまでわかったらもっと楽しめるんだろうけど残念。

それでも話の大筋はまあわかるので、カナダのNGOのシビアなところとか、色々驚きもあった。

たとえば、本契約じゃないハウスシェアの彼は、ベナンでの1か月の仕事内容を評価されて続行かどうかこの水曜に結果が出るとか。

不十分と判断されれば速効契約が打ち切りになってカナダに送り返されるらしい。

お給料は高くなくてすごく厳しそう。でもやるべきプログラムはしっかり決まっていて、NGO本部からしっかり監督されている。

JOCVの自分は、細かい計画やその進捗が自己管理の下にある立場なので心もとなく感じるときがあって、ちょっとうらやましくもあった。

ボランティアの自分と被雇用者であるアンの立場の違いかもしれない。

だけど、仕事のできによって送り返されるということはなく自主性を尊重してもらえ、自助努力が一番大事という自分の立場はとても恵まれているのかもしれないとも思う。

アンを見ているとやっぱりあらためて、

仕事もっとがんばろうぜ!!自分!!

と思う。

また、来週日曜日に彼女の仕事の見学に呼ばれているのでこの村に戻ってくるつもり。

早くケベックフラ語もわかるようになりたい。

2010年11月17日水曜日

8 nov 2010 事故

今日、道端で事故があった。
職場の目の前だった。
2台のバイクが衝突。
2人のベナン人が怪我を負った。

道に出てみると一人は道路に倒れたまま動かない。重傷の様子。
その怪我人は衝突時にバイクから放り出され、高いところまで跳ねあがって空中から地面に叩きつけられたということだ。
背面から落ち、頭と背中を打ちつけたらしい。
周りに人だかりができていて、人々は一生懸命、布きれで倒れたけが人を仰いでいる。
処置をする者はいない。

近くの保健センターに電話をしてみた。
誰か処置できる人を送ってくれないか?
保健センターは歩いて10分以内のところにある。
センターには看護師や医師がいる。

とりあえず保健センターに連れてこないと処置できない。
道端で処置をすることはできない、との返事。

保健センターにいつも止めてある救急車は?
出してくれないのか?

救急車は出せない。
運転手がいないから。
それに近いから出せない。
あれは隣町の病院に病人を搬送するためのものだから、とのこと。

代わりに隣町の救急車を呼ぼうと電話する村の人たち。
救急車は来られない。
理由はわからないけど。

けが人が道路で倒れたまま、どんどん時間が過ぎて行った。
誰かが車に乗せて10分先のセンターに搬送すれば医師に見てもらえる。
職場には何台か車があった。
自分の上司の車もあった。

「誰かがこの人を運ぶ必要があります。救急車は来ません。」

職場の人に言ってみたが、誰かがその人を車に乗せることはなかった。
周りの人は「彼の子供に連絡だ」「連絡先がわからないぞ」
と話している。
怪我人は血を流しているわけでもないし、保健センターは10分先。
でも、車に乗せようとする人はいない。

どうすることもできない。
地元の人たちもそう思っている様子だったが、外国人の私には余計にどうすることもできない気がした。
ここにはここのルールがあるような妙な気もして、それ以上何もできなかった。

これが私たちの国なのよ、というようなことを同僚が言った。

どうして、なんで、と私の頭の中で色んな疑問が浮かびっぱなしになった。
日本人から見れば、あれは医療体制の不完備そのもの、そして非効率的な人々の謎の行動。

その人が亡くなったことを数時間後に上司から聞かされた。

ひたすら無力感を感じ、疑問を感じた日だった。
自分の行動を、人道的にこれでいいのか、ともちょっと疑った。

そして、自分も同じように事故にあえば、助けは来ないんだと思った。
(きっと何時間もかけて、離れた場所からJICAの関係者が助けには来るだろうが。)
大けがをしたら、ここではすぐに死んでしまうような気がリアルにした。

自分の身は自分で守らなければいけないんだと思った。
この国の人たちも、そして同じようにこの国に住む自分も。

7 oct 大河の一滴?


自分の活動を通して劇的で広範囲にわたる地域の問題改善を与えるか?

といわれれば、正直難しいだろうと思う。

理由は多々ある。

2年という任期や、地元の行政組織や人材不足、資金不足の問題に直面するたびに限界を感じる。

それでも、2年後に例え一校でも児童が頻繁な腹痛や嘔吐が少なくなったという学校があったら。

一人でも、学校保健の重要性を今より意識するようになったという校長がいたら嬉しい。

小さなインパクトかもしれないけど、社会の何かを変えるということはとてもとても難しいことだから。

一つでもこの地域の何かが、自分の活動で改善されたら私は2年後に自分の活動に意味を見いだせると思う。

この地域での私の役割や存在なんて、長く続いてきたここの歴史や社会の中で大河の一滴にすぎない。

もちろん、自分の任務を最大限、効率的に果たそうとは思う。

でも、森(最大限のインパクト)を見過ぎて木(一人の変化)を見ないようなのもまた違うのかなと思ったりする。

28 sept ちょっといい日


現地の人ともっと交わろう!

最近すごく思うこと。

ここ8月9月は学校が長期休暇で、仕事で校長先生たちと個別に話す機会もあまりなかった。

何かとJICAの行事や他の隊員との交流で任地を離れることが多くてリフレッシュはすごくできたけど、どこか焦りが。

仕事は停滞しているし、なんとなく時間をすごしてしまったような気がするし、フラ語も伸び悩み。

もう来て6か月だぞっ!!


そんな時、任地に帰ると、ちょうど仲の良い校長から日曜にちっちゃいお祭りがあるからおいでとの誘いの電話が。

ベナン人のフレンドリーさにはほんとに感謝してしまう。

このお祭りは、新学期が始まる前の顔合わせのようなものらしい。

日曜の3時に校長の学校に行ってみると、校長はにこにこ顔で私を村に連れて行き、小さな建物に招待してくれた。

そこに副市長とか他にも結構えらい人たちが現れ、ビールを片手に一緒にイニャムピレ(ヤム芋を餅のように練った主食)を食べる。

日本人というだけで、私みたいな若造が村の偉い人たちと普通に同じ席に座らせてもらえる。

ここベナンでは割と普通にあることだけど、改めてビップ待遇にちょっとびっくり。

嬉しいような、自分の立場を不思議に思うような気分。

お昼の3時過ぎから食べ始めるイニャムピレはお昼ご飯なのかなんなのかよくわからないけど、ベナンの村の「お祭り」はみんなでこれを食べる(だけ!)というのが主流なようす。

たまたまお昼をあまり食べてこなくてよかった!!


けれども、これで終わりかと思ったら、校長はサッカーがこれからあると言い、サッカー場(と言ってもゴールの置いてある草っぱら)へ向かう。

そこには思ったよりたくさんの村人が観戦に来ていて、マイクやスピーカーも用意されていた。

解説の人が活気あふれる進行を行い、選手たちはちゃんとおそろいのユニフォームを着ている。

私は副市長や隣の群のトップが座るビップ席の椅子に座らせられ、招待客の立場で観戦することに。

子供たちも、この地位のある人たちも、みんなフレンドリーでいい感じだ。

草っぱらなので、ものすごくたくさん虫がいて、私も含めみんなでかゆいかゆいといっているのがなんだか観戦側の連帯感で、かゆいのは本当に困ったけど、なんだか楽しかった。

途中で雨が降ってきた。

すると、こっちに雨宿りにおいで!と誘ってくれたり、ハンカチで私の体を拭いてくれたり、村の人の優しさや温かさが小さい行動から伝わってきた。


そんな中、思ったこと。

「ベナン人」とひとくくりにして、一人ひとりと本気で交わろうとも理解しようとも十分にしないまま、理解不能と言ってみたり。

一つの行動や習慣だけをとりあげて、怒ってみたり。

現地の人から受け入れられなかったり、白人白人と呼ばれることで傷つきたくなくて、はねつける。

自分を守ろうとして、壁をつくる。

自分のいままでの態度はきっとそんな風だった。

改めて感じる、自分の小ささ。



帰り道。

夜空には数えきれないくらいの星。

まるでプラネタリウム。

こんなに星って地球から見えるんだなーって思うくらい。

なんだか宝物を見つけたような気持だった。

29 sept 2010 私をヨボと呼ばないで

ベナン人は好きか?

ベナンは好きか?

というのは、きっと単純明快で簡単な質問。

でも、これほど応えるのが難しい質問はない。

ベナン人にもたくさんの人がいるからひとくくりにするのがまず無理だしね。


でも、ベナンという国に6か月住んでみて、決してここでの暮らしは楽ではないって感じる。

その理由の一つは、ベナンの人々の物の捉え方が自分とは大きく違っていること。

特に、肌の色に対する感覚。

ベナン人の多くは私を「こんばんは、白人」とためらいなくに呼ぶ。

ちなみに、黄色人種という概念はないので日本人は白人。現地語では「ヨボ」という言葉。

この前ペンキ塗りを頼んだら、請求書の顧客名は「Ma branche」(フランス語で「私の白人」)

仲間の隊員が小学校に授業をしに行った時。

現地の先生は子供たちにこう言った。

「今日は、みんな、白人と一緒にお勉強しましょう!」


私はこう呼ばれることに6か月ここで暮らした今も抵抗を覚える。

あなたと私は白人と黒人。全然違うのよ、と言われているようで。

いつもいつも肌の色が違うことを、この社会の中で異質なものであることを、強調されているようで。

壁を感じる。

28 sept 2010 体力がなーい

体力。

今一番欲しいもの。

ベナンで、現地の人なみに動けるからだが欲しい。

この国では、とにかく眠くなる。だるくなる。

今は雨季で比較的涼しいのにもかかわらず、朝から出勤して昼自宅に戻るとちゃっかり睡魔が。

眠りにおちると、そのまま長時間寝続けてしまうこともある。

一日フルで働くと、夜ごはんをつくるのもだるいくらい体が重い。

あれこれ仕事の計画はあって、モチベーションは高いのに、体がついてこない。

でも気力で押し切って、大病をするのもばかばかしいので何とも言えない。

今まで大きな病気なしに来ているのも、体調管理を優先しているからかとも思う。

けれども、そんなことも言いわけに思える時はつらい。

正直、ベナンのこの田舎での暮らしは、健やかに生活するのすら結構精一杯。

足りない栄養、いつまでたっても慣れない気候、乏しい娯楽。

でも、ただ一生懸命生活するためにここにきたわけじゃない。

ただ健やかに暮らすだけなら、なんの2年間かわからない。

私が日本で楽に生活しようと、ここアフリカでサバイバル生活しようと、そんなこと周りの人には何の関係もないこと。

一協力隊員という立場で、どでかい仕事ができるとは思っていない。

それでも、自分の任務に意味を見出したいと願っている。

自分も成長したいと願っている。

違う環境で生活できるとかいうベーシックなスキルだけではなくて、仕事でより高い成果を出す能力をもっと磨きたい。

焦っても仕方がないから、建設的に考えて。

モチベーションを体現する方法。

生産性を上げるにはどうしたらいいか。どう効率を上げるか。

28 sept 2010 コーラ


ベナンの習慣。

出された飲み物は飲み干す。

それが礼儀。

飲み干さないと席を立ったり、宴会を終えることは基本的にはできない。


どこかで聞いたことが?

日本でたまにある、つがれたお酒は飲み干せ!という習慣に似ている?


ベナンでは必ずしもお酒を飲み干すという意味ではない。

ちなみに食べ物を残すのも問題ない。


この前の出来事。

一緒に席に座って、飲み物を頼み始めた校長。

この国では、誘った人がおごる習慣。だからこの日は校長のおごりだ。

何にする?と聞かれたので、コーラと答えた。

けれども、この答えは大失敗。

そのことに後から気づく。

なぜなら、田舎の村でコーラの小さい瓶は一般的ではないから。

そんな基本的なことを忘れていた自分を悔む。

コーラの700だかなんだか、どでかい瓶を一人で飲み干すのは容易ではなく、えらい目に。

でも、おごってくれた校長は、それ飲んだら出発しよう、といって、ゆっくりでもいいよと辛抱強く待っているし。

前にJICAの調整員もすごい量のコーラを飲み干すまで返してもらえず、死ぬ気で飲んだという話を聞いていた。

飲み干すのが礼儀。習慣。これはなんとしても重んじたい。重んじるのが筋だろう。

でも苦しいので、同席の校長の息子さんに、コーラのまない?と聞くとスプライトでお腹がいっぱいだと断られる。

飲むしかない。

炭酸水っていうのはこんなに飲みにくいものなんだなーと痛感。


胃がパンパンになったけど、なんとか飲み干して帰ったものの、もう気分が悪い。

我慢ができない。

そして、自宅のトイレでコーラを吐いた。

お酒を飲み過ぎて吐いたことはあるけど、炭酸水を飲み過ぎて吐いたことは初めて。

13 sept 2010 ガルディアン


ガルディアン。

ガードマンのことをフランス語でこう呼ぶ。

うちの家を警備しているガルディアンは二人。

日勤と夜勤を週交代で行っている。

うちの家は、亡くなった旧市長が立てた小さな家で、彼の建てようとした建設途中の豪邸の廃墟の裏にある。

廃墟の裏でしかも隣は空き地なので、安全上警備員を雇う必要がある。


最近は家族のように思うガルディアンのおじさんたち。

もちろん二人ともベナン人。

40代で、妻帯者、子沢山。

最初はガルディアンをどう扱っていいかわからず、ストレスも感じた。

私は彼らより若くて、フランス語もまだまだな外国人女性なので、なめられないように必死だった。

ありがとう、を頻繁に言って下手にならないようにわざとそっけなくしてみたり。

友達ではなく、雇用関係なんだとけじめをつけようと一生懸命だった。

でも最近は、ありがとう、と素直に言える。

もうそんなことをわざとしなくても、彼らはわかっているからだ。

私が何かを頼んだり尋ねたりしたとしても、笑顔で接したとしても、彼らは私を下に見たりひどく慢心したりはしない。

ある程度の信頼関係とも呼べるかもしれない。

首都の事務所に一週間滞在して戻ると、おかえりなさい!!と嬉しそうに出迎えてくれる。

「今日は帰ったかな、今日は帰ったかなと待っていたけど、なかなか帰ってこないから!タンティ(現地語でマダムという意味)がいないと私たちはハッピーじゃないですよ!」と。

私の怪我をしている指を見て、「指どうしたの?気をつけて!」と。

前にこんなこともあった。

庭に花があったらいいなあと言っていたら、知らないうちに庭に大きな葉っぱがにょっきり出現。

「これなに?」と聞くと、「花。」とガルディアン。

そんなガルディアンたちには、心からありがとう、と思う。

こんな風に私を喜ばせてくれても、さして報酬があがるわけでも、特別に何かがもらえるわけでもないのに。

今まで、どうしても続けてもらうことができず、やめてもらったガルディアンもいた。

信頼していたガルディアンとお手伝いさんが共謀して盗みを働いた、という他の日本人の話を聞いたこともある。

予想不能なことが多々起こるこの国で、手放しに人を信用するのは簡単なことではないかもしれない。

それでも、私はうちのガルディアンたちを家族のように思う。

何か、信じられる温かさを感じる。

彼らとも色々なことがあって迎えた6か月目。

そんな温かさを感じて幸せな気持ちになる今日この頃。

2010年9月22日水曜日

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ベナンに協力隊員として派遣されてから6ヶ月がたった。

任期が2年だから、もう4分の1が過ぎたと思うと本当に早い。

毎日、嬉しいことつらいこと、びっくりすることや泣きたくなること。

考えさせられることや迷うこと。

思えば日々そんなことの繰り返しでここまできた。

少しづつ慣れていく生活の中で、感じたことや考えたことを置き去りにしていくのはもったいない。

この遥かなアフリカにある小さな国で活動する期間は、忘れるにはもったいない経験をできる2年なんだと思う。

だから、自分の日記として、そして協力隊がどんなものかなって思っている一般の人のちょっとでも参考になればと思ってブログに残すことにした。

任地にはネット環境がないので、首都に用事で上がる度の更新になると思う。

たぶん月1くらいのペース。

私の書くことは、個人的な所感だし、正しい意見ばかりじゃないはず。

偏ったり間違ったりもしていると思う。

そんな断りをした上で、ちょこっとづつ協力隊生活のいろんなことをここに残していこうと思う。